義務感と「べき論」

 これから毎日ブログを書いてみようかな、なんてことを書いた翌日にもう書くことを忘れちゃうという体たらく。とはいえのんびり続けようと思ったらこのぐらいの心持ちでいたほうが良いのかなとも思ったり。

 

 タイトルの「義務感」。他の人がこれとどう付き合っているかはわからないけど、自分の場合この義務感は行動指針において非常に大きな意味を持っています。「明日の予定どうしようかな」「今日は何を食べようかな」「新しいゲームを買おうかな」、日々の生活の中で当たり前に生じる選択の根拠は、現状において自分自身がどうす「べき」かに拠ることが非常に多いのです。

 当然、どうすべきかということを考えて行動することは必要だと考えるし、どうすべき状況かを考えるのは自分なので、それが必ずしも悪いことではなく、またそこにまったく主体性がないわけでもないと思います。

 しかし、例えば「~したい」という動機に基づく行動と比較すると、「~べき」での行動は後ろ向きなところがあり、自分の可能性を閉ざし、消極的な行動につながる思考となっている現状があると言わざるをえないと反省しています。また、「~べきだから~は仕方ない」という、原因を外部に求めることを、内面の事情に過ぎない思考のレベルで行ってしまっていることに問題があるとも思います。

 「~べき」の部分で必要なことはこれまで通りこなしつつ、これから自分自身が幸せに生きるために「~したい」を少しずつ増やしていきたいなと最近の反省を踏まえて思いました。一歩目は「~したい」と思う「べき」から始めているんですけどね。

 とりあえず社会人になってからずっと第一に考えてきたお金を貯める「べき」をちょっと見直して、金銭的なところから心にゆとりを持ってやりたいことを考えたいな。